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​何かを書いていきます...
 

まだ少しだけ体の節々が痛む。手首がピリッとしたりする。けれど、主な痛みは喉だけに残っている。

眠る頃になると悪化して、朝起きた時がもっとも痛い。寝ている間に乾燥することで、より悪化しているのだと思う。

とはいえ、体が元気なので、ショッピングセンターの地下にあるピーコックに寄って、いかの刺身、料理酒、わさび、特大のはまぐり(きっと昨日の暇祭りの売れ残りが半額で売っていた)、あさりのむき身を購入。

はまぐりはお吸い物にしたら、よく味がでた。身の弾力がありすぎて、嚙み切れなかった。

NHKオンデマンドを今日も見る。ドラマ「舟を編む」が第三話まで配信されていたので、試しに第一話見たら、面白く、第三話まで集中して見てしまう。未来を見通す雑誌と過去を見返る辞書づくりの遭遇から、物語は始まる。

深夜、散歩がしたくなったので、近所のローソンまで歩いていくと、解体予定地となっていた。ローソンの看板すらなく、完全な廃墟となっていた。ローソンのイカソーメンがとても好きだったのに。しかたなくセブンイレブンへ。アーモンドチョコのアイスバーを買って、食べながら帰る。喉が冷えて、余計にジンジンしてきた。​(20240304)


朝食は食べずに六本木へ向かう。いつも最寄り駅へ向かう途中にある昔ながらのタバコ屋の前にその亭主が管理しているらしき自動販売機があって、その一番下の列に並んでいる微糖の缶珈琲を買うのが日課となっている。缶珈琲にはたいへんな量の砂糖が入っているのだからやめた方がいいと言われたら、缶珈琲には缶珈琲のクオリアがあるのだと答えるけれど、では缶珈琲ならどれでもいいのかと聞かれたら、そのタバコ屋の前の自動販売機の微糖の缶珈琲がいいのだと、とても限定的にぼくは答えると思う。街中の自動販売機でもいつも、その銘柄がないかをじつは探している。ぼくの頭のなかの街は缶珈琲によってある程度ネットワーク化されているといって過言ではない。今日もまたhotの缶珈琲を120円に購入して、ジャケットのポケットに入れて、駅まで向かう。中目黒まで行く。日比谷線に乗り換えて、10分ほどで六本木。今日はハリウッドビューティープラザという、一度も足を踏み入れたことのない場所で開かれる美術批評関連のレクチャーを聴く。14時の開始までは少し時間があったので、六本木ヒルズのノースタワー地下1階にあるヤム亭でカレーをスパイスカレーを食べる。一緒にいた人にぼくは複雑なスパイスの交わりが苦手だと思われているだけど、そんなことはまったくない。ただカレーは食べようとするのに体力が必要だという、億劫さがぼくのなかに湧きあがってくるから、普段はあまり食べないだけで、本当はスパイス耐性はかなりあるはず。体力が必要、つまり疲れそうなイメージは浮かぶ食べ物はほかにもあって、一番はフルーツ。フルーツはカレーと同じでまったく嫌いではない。ただ、疲れそうな気はしているだけ。店に入ったときにいた隣のカップルはちょっと分からない現代アートはいいけど、わからなすぎる現代アートの展示はいかないとかなんとか話していた。小豆島で見たあれは面白かったよね。あとモノクロ写真の展示なら行きたいねと言って、お会計に行ってしまった。次に来た女性の2人組はこの店と下北沢にもあるヤミーズの店舗の雰囲気の違いについて話していた。カレーはおいしかったし、久しぶりに食べた玄米もおいしかった。当たりだった。ぼくらそのあとスタバで少し読書をして、時間になったので、会場へ。イギリスとフランスを拠点にする批評家のレクチャーを聴いたところで、途中退出。そのまま思いつくままに青山ブックセンターへ直行し、物色。坂口恭平さんの『幻年時代』の文庫版とまだ読んでいなかった斎藤環さんとの往復書簡を購入。表参道駅とブックセンターのちょうど中間にある「ねぎし」にカフェに入るような気軽さで入店し、とろろと焼き豚とごはん二杯も平らげた。いまは夕方の6時前。きっとあとでまだお腹がすくだろうけど、その時はおしゃぶり昆布でも食べようと思う。『幻年時代』を読みながら、東横線で帰る。はじめにあの灰色のハードカバーで読んだときにはえらく読み進めるのに時間がかかった記憶がある。重力場みたいな力に足を取られていた気がするけれど、今度はなぜだかするすると読める。駅からの帰り道、成城石井の生ハムを観察する。おせんべいコーナーを観察する。ウェルチがおかれていたはずの冷蔵棚には乳酸飲料しか見当たらなかった。今日はスペースをしたい気分だったので、3月22日に一緒にトークをする美大生に集まってもらって予告編をすることにした。22時45分-25時まで話し続ける。深夜の哲学対話になって聞いている人も面白かったと思う。録音はここから。26時頃、暗がりのベッドでゴロゴロしながら、今日の格闘技情報をチェックする。切れているチーズを5枚ぐらい食べてしまう。ミネラルウォーターをがぶ飲みして、眠りにつく。(20230312)
 
東京都現代美術館で「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」​展を見る。一番はじめに上映されていた作品からしてよかった。政治的なテーマを扱っているのに義務感ではなく、見続けられるのは、作家の技量だと思う。何なら、自分でも試しでやってみたいとすら思った。対話式ではなくても、レクチャーパフォーマンスの一環として「アート・ジャーナリズムの夜」をやってみるのはありだ。というより、すでに半ばそうなっていると思う(がゆえに、何が誤解が生じている可能性もある)。まあ、それは追々解消するとしても、オルデンボルフ展は、制作欲を喚起させる展覧会だったと思う。
 展覧会を見る前に、清澄白河駅近くの定食屋「梅仁」でシラス丼を食べたのだけど、これがめっぽうおいしかった。海鮮丼は新鮮さにこだわっている店ほど、微妙なことが多い。味は新鮮で決まるのではなく、作品と同じように「蔵置環境」に大きく左右されるのだと思う。近所の寿司屋も新鮮ではないけれど、めっぽうおいしい。生ものの熟成はにわかに初心者が手を出せる領分ではないが、シラス丼にもそれに似た旨味を感じた。美術館の図書室でロベルト・ロンギ『芸術論叢』の目次を確認する。来年に向けて現代美術史についてまとめる必要があり、その背骨にあたる美術史家としてひとまずロンギを置いてみようと思っている。そんな気軽に背負えるような存在ではないだろうけど、モランディを研究していた身からすると馴染みのある美術史家だ。でもヴォーリンガーやパノフスキー、ヴァールブルグよりも読まれていないのはなぜだろう。翻訳の入手しやすさの問題だけだろうか。最近、『イタリア絵画史』はちくま学芸文庫で読めるようになった。
 帰宅し、一昨日買った牡蠣と野菜を合わせてオリーブで炒めたパスタを食べる。パスタ麺がおいしいだけで、パスタはおいしい。18時30分からブレイキングダウン6.5が無料配信されていたので、途中から見る。試合が延長、再延長になるにつれて、体力が切れて、動きが鈍くなる男たちを見て、乳酸のことを思う。中学生の頃、サッカーのコーチは走り込みをして、足がパンパンになることを乳酸が溜まると言っていた。カル
ピスの乳酸菌と、その太ももの乳酸は関係あるのか、ないのか。刺青の入った男たちの体中に溜まった乳酸は、どこへいくのか。たぶんカルピスにはならない。(20221204)


 横浜で寺田健人くんの個展を見た。「BankART Under 35 2022」という35歳以下のアーティストを支援する企画の第二期に寺田くんは選ばれて、今週末までBankART KAIKOで展覧会を開催している。
 「規範的な家族像」の批判がテーマと聞くとなんとなく構えてしまう。そして当の本人が最も意識しているだろうけど、既存のカテゴライズを批判することで、また別のカテゴリーが生まれてしまうという、仕方のない矛盾も抱えざるをえない。この矛盾は、カテゴリーの存在を強調することによって、生じている。しかし、はじめからカテゴリーの存在を曖昧に扱ってしまえば、本末転倒で何も言っていないことになってしまう。以上のことを考えると、すぐに思考は行き止まり、宙づりになってしまう。
 だから、展覧会を見に行く必要がある。思考の宙づりは、そのためのフックにすぎない。
 本展は「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」と題されている。本展の主人公は、ここに書かれていない「父」である。作家本人の幼少期に父や母と映るプライベートな写真と、作家本人が「父」としてひとりで撮った想像上(=不在)の妻と娘とのプライベートな写真が並べられている。「ひとりで撮った」というのは、写真のなかの「父」としての作家自身がリモートレリーズを持って、その写真を撮影していることが明示されているからだ。写真をひとりで撮ることで、妻と娘の不在はより際立つことになる。
 留意すべきは、自撮りするための決まった構図を決めることなく、あくまでも些細で日常的なプライベートな瞬間が、自撮りされていることだ。これは、現代の汎スマホ・SNS状況からすれば、反自撮り的な行為である。いうまでもなく、今日、自撮りとは自分をさらけ出すものではない。他者に見せたい、自己の表象であり、その圧倒的な自己顕示欲を駆り立てることで、自撮り文化は支えられている。しかし、寺田の自撮りはその位相にはない。寺田の自撮りは外部に向かっていないということだ。あくまでも、想像上の家族へと引き継がれていく、自分自身の家族像のなかに向かっている。精確にいえば、写真のなかにいるはずの、想像上の妻と娘に対するまなざしから成っている。つまり、コンセプトは「規範的な家族像」の批判へと向かっているが、実際の作品たちは、他人に特別に顕示するほどのものでもない、けれど、決してありふれることのない、自身にとっては唯一の家族の成立へと閉じられているのだ。これは鑑賞者に向けられた、一種の「配慮」だと受け取っていいと思う。
 で、この話をぼくは書きたかったわけではない、という梯子はずしをしよう。本展でもっとも重要な作品は、入って左手奥の壁の中央に配されている。シルバーフレームで額増され、内側の窓もシルバーフレームで囲われた作品である。これまで説明してこなかったが、展示されている写真作品は額装されている。メタリックなレインボーカラーのフレームである。もちろん、本展のテーマからすれば、そのカラーの選択の理由はすぐに理解できる。それゆえに、だ。レインボーからは外れた、パウル・クレーのいう「灰色」に等しいシルバーフレームの作品、しかも二重に現実の空間から隔てられた、あの写真は特別な存在感を放っている。その内側で時空がゆがんでいてもおかしくない。何が写されているかといえば、写真館のような場所でと誰も坐っていない木製の椅子に手をかけたスーツを着た男性の姿である。
 「父」だけが実在している、想像上の家族写真のように見える。それまでに見てきたプライベートな写真とは異なる、パブリックな家族写真といっていいだろう。ただし、「父」の顔は、ブレでそれが寺田の演じる「父」の顔かどうかはまったく判断することができない。この顔の歪みと椅子の空白は、家族を構成する人物がそれぞれ二重写しになっていることを表していると思う。本展で、父と「父」の姿が、実の親子のよく似た表情を通して、重ねられていることは、誰の目にも明らかである。かつ、もう一点、写真のほかに、女の子用のおもちゃが床に置かれたインスタレーションでは、ブラウン管テレビから流れる映像にメイクをする寺田の姿が見える。すると、父と一緒に映る、息子が同時に(娘)であるかもしれない、または妻であるかもしれない、というのも、誰の目にも明らかなのである。つまり、話を戻せば、ブレた父とは、父であり「父」である。かつ、椅子にいるのは、母であり、(妻)であり、そして(娘)であり、「娘」であると受け取れる。       
 とはいえ、そこまできれいに父、妻、息子の三者がそれぞれ別のものと重なっているかといえば、そうではないとも思った。父/「父」と息子(娘)/娘の二重性は、展示の主眼に置かれていると思うが、母/妻の二重性は、とても希薄である/ではないだろうか。
 たしかに、本展で母らしき姿は、被写体として表れていたし、おままごとをする(娘)のそばには彼女の姿があったのだろう。にもかかわらず、だ。母と妻は、互いの二重化をまだ経ていないように思えるのだ。
 これは父を主人公とするときのひとつの限界なのかもしれない。思いのほか、その作品に身体をもって現れたのが父/「父」であったことは、重大な意味をもっているのかもしれない。そのせいで、母と妻は充分に二重化されることがないのかもしれない。いや、分からない。
 あるいは、すでに「父」を演じる、寺田のなかに「母」と「妻」の姿があった。そのような見方はできるだろう。ただ、それでもやはり、(娘)らしき寺田の姿に本展においてはある特権的な位置が与えられていたことは気にかかる。ここは娘の王国である。こことは、「家族」のことだ。それは特に悪いことでもない。けれども。
 以前、札幌の画家に北海道では葬式のたびに家族写真を撮るのだと聞いて、驚いたことがある。だいたい家族写真はめでたい記念日に撮られるものだと思い込んでいたからだ。それ以来、ぼくが家族写真とは、家族に新しい生が誕生したとき、そして生が消失したときに撮られると考えるようになった。言い換えれば、誕生と消失によって、これまでの家族像が不安定化しているときに家族写真を欲望される。例外はいくらでも思いつく。けれど、原理からすれば、家族写真とは、家族という私たちの輪郭があいまいになっているという前提があるはずだ。なぜ家族写真が撮られ、見られるのか。それはそのときに当人にとっての家族像が揺らいでいるからなのである。

 ならば、そもそも誰も坐っていない椅子の上からも、さらにいないかのように感じられた母/妻の空白について何か考えられることはあるのかもしれない。(20220606)

 
​チューリップは見かけていない。また寒くなった気がする。自分が油断して、少し薄着になっているだけかもしれない。先月の美大生イベントのアーカイブ視聴期間が終わって、最終的なチケット売上額が確定した。みんな喜んでいた。というか、単純に素晴らしいと思う。ちゃんとやれば、この規模であれば、ちゃんと伝わることが証明されつつあるのだから。思うに何が話されるのかではなく、誰が話すのかばかりがひとの関心を集めているなかで、誰かがわからない無名(という言い方もあまり好きではない。すべてのひとは有名であり、無名ではないか)の人たちを集めて、彼らが話すことにこれだけの人たちが関心をもっていて、それが数となって示されている。これは続けていくべき活動だと思う。そして、続けていかれるべき活動だと思う。でも、続いてほしいと思うものは意外と終わる。美術手帖は隔月化のさきに季刊化を発表した。それはポジティブに捉えられるチェンジだとある編集者は言う。たしかにそのチェンジには時代的な必然性があるだろう。なるべくしてなったと。そういう運命であり、それを引き受ける使命があったと。そもそも、そんな使命をある一つの媒体に負わせすぎてきたこと自体が問題だったのかもしれない。「あなたがやりなさいよ」、そういうことなのかもしれない。とはいうものの、批評やジャーナリズムにはメディアが必要だ。三島由紀夫がどの時代にも時代と寝る小説家がいるものだと書いていたけど、メディアは批評やジャーナリズムをある時代のものとするために必要だ。しかし、もうそんな時代ではない。個人が(20220309つづく...)

そういえば、まだチューリップを買っていなかった。金曜日に知り合いの送別会?のようなものがあって、そのためになんとなく花屋で花を買おうと思ったのだけど、一本だけを買う勇気がそのときは湧いてこなくて、諦めた。じゃあと思って、場所が中目黒だったから蔦屋書店でいい栞でも買おうと思ったけど、男性に送るにはすこしキュートすぎるものしかなくて、こちらも諦めた。結局、なにも持たずにサイゼリヤへと向かった。送別会をサイゼリヤでするのもどうかと思うけど、久々に行ったら、新メニューがいくつか加わっていて、楽しかった。とはいえ、頼むのはカルボナーラとエスカルゴ。美術館のアーカイブについて話した。これは、金曜日の話。今日は、展示をまわった。山内祥太、ギルバート&ジョージ、大山エンリコイサム。これから鍋を作る。(20220305)

仕事帰りにまたLOCUSTフェアに在廊した。書店内のほかの選書ブースを見て回る。ぼくも買いたい本がいくつかあった。アメリカ文化史におけるサーカスについて書いた本、ガルシア・マルケスが本当は魔術師になりたかったというエピグラフから始まる本。手にもって買ったつもりになって、そっと本棚に戻した。これはぼくがよく書店でやることだ。勢いがないと、本を買うことはできたい。谷頭君と喋っていた、とても元気のよい最後のお客さんをお見送りをする。閉店後にイトウモさんが合流して、みんなで小樽料理を食べにいく。ぼくはととろご飯ととろろの鉄板焼きを頼んだ。とにかく、とろろが大好きなのだけど、鉄板焼きの方にはこの世で一番嫌いだったはずのオクラが入っていて困った。けれど、難なく食べられたので、もうオクラのことは嫌いではないのかもしれない。ただ、嫌いと思いたいだけで。本当はけっこう好きだったりして。いや、そんなことはない。何かの食べものが好きで嫌いという判断基準は、いつも揺らめいている。22時頃に解散。東横線に乗って帰宅。ぼんやりとひまな時間ができたので、スペースを開いて、また一人で喋る。30分のつもりが90分ほど話した。昨日話したことの言い換えを、ひたすらし続ける。ぼくの話は、論理展開は早々に終わっていて、あとはパラフレーズによる強調だけがある。でも、その強調が独特の前向きさとおかしみに繋がっている。1時間、ひとりで喋ると体の中に疲労感が残る。中心の空洞がヒートアップして、はあはあする感じ。人体の内燃機関を冷やす方法を探している。スペースを終えた後の記憶がほとんどない。シャワーを浴びて、ベッドにゴロンとなった。たぶん、眠った。(20220304)


下北沢のBookshop Travellerという書店でLOCUSTフェアが始まった。初日、在廊をした。先日の美大生トークイベントの延長戦をスペースをしたときに、質問をしてくれた高校生が来てくれた。写真表現に関心をもっていて、制作物を交換し合うプロジェクト型?の作品もつくっているみたい。インスタグラム時代の写真について話した。大山顕さんの『新写真論』、國分功一郎・千葉雅也さんの『言語が消滅する前に』をおすすめした。閉店間際に来た知人と「アートジャーナリズムの夜」の活かし方について考えた。一般向けの時事的ジャーナリズムメディアのアート記事として公開されるのが個人的にはベストな展開だと思う。在廊中に編集部員のイラストを描きながら、アン・フリードバーグの『ウィンドウ・ショッピング:映画ととポストモダン』をパラパラと読み直す。ベンヤミンのパサージュ論を基にし、パノプティコンではない別のモデルをはっきりと打ち立てている。それは観る者ではなく、空間が移動し、時間が移動するジオラマ、パノラマ、これらが可能にした移動遊歩者の仮想的な視点。東浩紀さんのいう「観光客」的に人が振舞うときの経験は、フリードバーグによれば、ウィンドウ・ショッピングをする遊歩者のことになるだろう。東さんならショッピングモール論になるけれど。またフリードバーグはジェンダーによる視点の非対称性に多くの紙面を割いているのもいま読むと興味深い。帰宅後は、シラスの田中功起さんと東さんの「共生と育児と抽象とケア」を途切れ途切れに見る。明日ぐらいにチューリップを買う。(20220228)
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